■ 易と共時性原理

共時性(Synchronicity; シンクロニシティ)原理は心理学者であるC・G・ユングによって最初に提唱された原理である。ユングは,集合的無意識という概念を時間軸の中でのみ研究(例えば,個人の無意識の根底には,その人の祖先の心理的遺伝が継承されているという考え方)してきたが,ヴィルヘルム訳による易経を研究するに及んで,集合的無意識は空間的にも存在することを確信し,1950年の彼の晩年になって,物理学者の友人であるパウリの激励を受け,これを共時律仮説として公表するに至った。共時律とは,このような集合的無意識の場が,個体の存在を越えて,時間的・空間的に広がっており,互いに遠く離れた人々の間でも,無意識のレベルでは,見えない力により互いに結びつけられている,とする概念である。

ここでまず,‘無意識’とは何かを定義しておく必要がある。心理学的には,自我意識(心) = 意識 + 無意識 と定義される。意識は,感覚からの入力を受け,判断を行う。通常の日常生活はほとんど意識的に行われている。意識は心の表面的な領域に属するものである。
一方,心の領域の中には,普通は表面まで現れてこないものがある。これが無意識であり,物理的実体としては過去の記憶である。人間は過去の記憶の全てをいつも思い出しながら判断はしていない。現在直面する事象に関連する事柄を懸命に記憶の底から引っ張り出すことはあっても。しかし,とっさの場合には無意識のうちに正しく判断したりもする。

記憶は不思議である。大体の場合,相当努力しないと記憶に残せないし,たとえ記憶できたとしても,簡単に関連する記憶を引っ張り出せない。そもそも記憶に残るのは,何らかの形(これがどういう契機か分からない。大体,くだらないことは覚えていても,肝心なことはすぐに忘れるのが常である!)でその人に印象的であった事柄のみである。無意識は過去の記憶であるが,無意識から起こる作用は,普通イメージの形をとって現れることが多い。例えば夢である。夢は過去の記憶が意識に対して送りこむイメージ情報であると理解できる。
以上の無意識は,個人の歴史の範囲での話であるが,ユングの場合には更に,無意識の範囲が自己の歴史の範囲を超えて先祖や周囲の環境からの記憶と互いに結び付けられている,しかも,時間や空間を超えて,と力説しているのである(上記青い文字の部分)。即ち,

自我の無意識 <--見えない相互作用--> 集合的無意識

という関係が,過去・現在・未来という時間的にも,自分の居る場所・他者の居る場所・地球・宇宙という空間的にも成立している,ということが大切なポイントのである。

ユングによれば,共時性原理は以下のようにして発見された。“私はそれまで長い間,無意識過程の心理学を研究していたために,新しい説明原理を探す必要に迫られていました。無意識の心理学におけるある種の独特な現象を説明するには,因果律では不十分に思われたからです。私が発見したのは,因果的には互いに関連づけることができないにもかかわらず,別種の関連を見出すことができるような心理的対応現象が存在するということです。私には,この関連は主として,複数の事象が相対的な同時性において起こるという点にあるように思われましたので,‘共時的’と表現したわけです。(中略)例えば,同じ考え,同じしるし,あるいは同じ心の状態が,様々な場所で同時に出現する場合があります。”(ユング&ヴィルヘルム著‘黄金の華の秘密’)

易に対するユングの取り組みは半端ではない。1920年には一夏かけて,筮竹の代わりに葦の束を切って易の占いを実修したという。ユング自身の実験によると,易の占いは,偶然の一致とは考えられないほどの高い的中率を示していた。ユングは言う。“そこで私は,易経の占いなどまぐれ当たりにすぎない,という考え方に対しては批判的である。私の経験した明白な的中数は,偶然による蓋然性をはるかに越えたパーセントに達しているように思われる。要するに,易経において問題になっているのは,偶然性ではなくて規則性であるということを,私は信じて疑わない。”(ユング著‘東洋的瞑想の心理学’)

ユングは別の本でも易に言及する(2021年12月18日追加)。

"私が初めてリヒアルト・ヴィルヘルムに会ったのは、カイザーリンク伯のところで、ダルムシュタットの「叡智の学徒」の会合のことであった。それは1920年代の初めであった。1922年にわれわれは彼をチューリッヒに招聘し、彼は心理学クラブで、「易」について講演した。

彼に会う前でさえ、私は東洋哲学に関心を持っていた。そして、1920年ごろに易を実際に試み初めていた。ボーリンゲンでのひと夏、この書物の謎を解明するために全力をあげて取り組む決心をした。古典的な方法において慣例となっている筮竹の代わりに、私は自分で葦の束を切った。易経をそばに置いて、私は百年の樹齢を数える梨の木の下で、問いと答えの相互作用の結果として生ずる宣託を照合することによってやり方を練習しながら、何時間も土の上に座っていたものだった。あらゆる類の打ち消し難い注目すべき結果が、ー 説明のつかない、私自身の思考過程との意味深い連関が ー 現れた。

 この実験における唯一の主体的介入は、実験者がきままに、すなわち数えないで、49本の小さい棒の束を一度につかんで分けてしまうところにある。彼はその分けた束に各々何本の棒が入っているかを知らない。それでも結果は棒の数の関係如何で定まるのである。他の操作は全部機械的に進行し、意志による干渉の余地はない。もし、心的な因果関係が存在したところで、それはただ、棒の偶然的な分割においてのみ存在できるのである(また、他の方法では、コインを気ままに投げる時にだけである)。

 その夏の休暇の間じゅうずっと私は次の問題に夢中になっていた。すなわち、易の答えは意味があるのか無いのかということである。もしあるとすれば、心理的な事象の流れと物理的な事象の流れとの間の関係はどうして起こるのか。私は非因果律的対応(後に私が同時性といった)という考えを暗示するように見える驚くべき符号に度々遭遇した。私はこの実験に非常に心を奪われていたので、その記録をとるのをすっかり忘れ、後でそのことを非常に残念に思った。しかし後に、私の患者と共にその実験を度々するようになった時、関係する重要な数が、実際に的中することを確信するようになった。

 たとえば、強い母親コンプレックスを持っていた若い男の場合を思い出す。彼は結婚したかった。そして、見たところ似合いの女の子と近づきになった。ところが、コンプレックスの影響を受けて、再び圧倒的な母親の支配の中に自分自身を見出すのではないかと恐れ、不安を感じた。私は彼と易をこころみた。彼の得た卦について易経に曰く、「その娘は権力がある、そのような娘と結婚すべきではない」と。"(これは、天・風・姤の卦辞である;筆者注)(ユング著「ユング自伝2;付録4 リヒアルト・ヴィルヘルム」)

  易に規則性があるという発見は,ユングにとって集合的無意識が時間的のみならず空間的にも存在することを確信させることになった。なぜなら,ユングにとって規則性があることは,同じ地球上の誰にとっても規則性がある,即ち,その規則性は空間的に普遍であることを意味しているからだ。ユングは,易の高い的中率の原因は,集合的無意識からの直感によって,未来の空間的状態を規則的に知ることができるためだと考えたのである。

易経(繋辞上伝)では,上記黄色部分の集合的無意識を‘道(Tao)’と呼び,見えない相互作用を‘陰陽の働き’と呼び,地上の万物を人間も含めて‘器’と呼んで,以下のようにその関係を表現した。

“一陰一陽,これを道と謂う”(第5章)
“形而上者,これを道と謂い,形而下者,これを器と謂う。”(第12章)

形而上者とは,形に先立つ物の意味であり(形を越えるという意味ではない),混沌としての道=天であるとみている。これに対する形而下者は,形あるもの,つまり地上の万物である。 天からの陰陽の作用が地上の万物に及ぶ,だから地上の万物は天の働きかけを受ける‘器’である,というのが易経の考え方なのである。

地上の万物(器) <---見えない相互作用(陰陽の働き)---> 集合的無意識(道・天)

以上のように,易の心理学における新しい解釈が,共時性原理であると言ってよい。易の基本原理とユングの共時性原理は全く同じといっても過言ではないのである。易は,集合的無意識の規則性を64卦・386爻により表現し,見えない相互作用(陰陽の働き)は変爻により,大域的かつ瞬間的に表している。大域的かつ瞬間的にとは,時間・空間を越えて,という意味である。

こうしてみると,時空を超える観点から,共時律に対立する概念は因果律であることが分かる。因果律とは,原因があって結果が生じるという近代科学の根底をなす概念であることはいうまでもない。共時律にしろ因果律にしろ,その基礎となる概念は時間である。アインシュタインの相対性理論ですら‘同時’こそ相対的ではあるが,原因と結果が同時に起こったり,結果が原因より先行することはない,即ち因果律を破ることはない。しかしユングの共時性は,同時に,同じことが異なる場所で起こったり,夢の‘意味ある一致’等により,結果を事前に知ることもありうるので,あきらかに因果律を破っているのである。このようなことが科学的に説明できるのだろうか?ユングは,まさに近代科学の基本的枠組みに対して挑戦したのであった。ユングが晩年になるまで共時律仮説を公表できなかった理由がこれであった。彼の学者としての生命をかけた公表であったといえる。

このホームページでは,ユングの共時性原理は量子力学での非局所的相互作用と同一の原理であると考えている。これは,見えない相互作用としての遠隔相互作用であり,また,量子テレポーテーションとして,現在の量子力学における大きなテーマとなっている分野でもある。量子易学では,集合的無意識と個体の無意識との見えない相互作用は,量子テレポーテーションであると仮定する。この仮定の基でこそ,易の占断が‘偶然による蓋然性’を超えることができることを現在科学で説明できるのである。

(2001年11月25日;第二版 Copyright 寒泉)