■ 量子情報処理概要


主に1990年代に入って,量子力学を利用した新しいタイプの情報処理(量子情報処理)が盛んに研究されてきている。きっかけとなったのは,ベルの不等式を検証したアスぺ等の実験,即ち量子相関の存在の実証であったが,これを更に押し進めたのは,1993年のベネット等による量子テレポーテーションに関する論文であり,1997年の古沢等による量子テレポーテーションの実験の成功であった。この実験の成果はScience誌の“20世紀の10大成果”として紹介されたものである。きしくも同じ年にIEEE誌に発表されたShorの論文は,高速な暗号解読を可能とする量子コンピュータの研究を推進するきっかけとなった。これらの画期的な量子技術の研究を推進させる元になっている基本原理が量子エンタングルメント(量子の絡み合い; entanglement)である。代表的な例は電子のスピン一重項状態,すなわち全スピンがゼロの状態(スピン+1/2と スピン-1/2の合成された状態)にある2電子系である。 正確には“複数の部分系からなる量子系において,個々の部分系の積では表されないような‘分離不能な状態’に現れる非局所的な相関”と定義される。古典系には存在しない,量子系特有の相関なので‘量子相関’と呼ばれることもある。2準位系2体間のエンタングルメント,すなわち電子のスピン一重項状態のような例,については,ここ6年間ほど集中して行われた研究成果により,その性質はほとんど解明されているが,2準位系でも3体間以上の場合や多準位系の場合については未だ研究発展途上であり,解明されていない点も多い。

(1)量子情報とエンタングルメント(絡み合い)

古典的な情報の単位は“ビット(bit)”と呼ばれ2つの変数0と1で表されるが,対応する量子的な情報単位は“量子ビット(qubit)”と呼ばれる。量子ビットは量子2準位系の直交する2つの状態|0>と|1>で表される。量子2準位の具体的な例としては,光子の2偏光状態・核スピン等に見られるようなスピン1/2の物理系を考えることができる。量子情報は3準位系以上の系(多準位系)でも表すことができる。3準位系の単位はトリットと呼ばれ,3つの直交する状態|0>,|1>,|2>で表す。量子コンピュータ等,通常の量子情報処理では量子ビット(qubit)を用いることが多いが,トリット以上には“束縛されたエンタングルメント”のような,量子ビットには存在しない性質もあり近年盛んに研究されてきている。

量子系の状態が古典系と基本的に異なる点は,任意の重ね合わせ状態,例えばα|0>+β|1>,を考えることができることである。この重ね合わせ原理によってエンタングルメントのある状態を作ることができる。エンタングルメントを理解するために,最初にエンタングルメントのない状態を考える。エンタングルメントのない状態とは,定義により,複合系が個々の量子情報単位の積で表される“分離可能”な状態であり,積状態(Product State)とも呼ばれる。量子情報単位として量子ビットを例にとると,直積記号を用いて|0>|0>と書くことができる状態であり,それぞれの量子ビットの状態は独立に決まっている。直積記号は省略されることが多く,上記の状態は|00>とか|0>|0>と書かれる。|00>や|11>が単独だと分離可能な積状態であるが,その重ね合わせ状態である
+> = (|00> + |11>)/√2
分離可能な積状態ではない。このような状態をエンタングルメント状態と呼ぶ。これは、(|00> + |10>)/√2と比較すれば明らかである。後者は(|0> + |1>)|0>/√2という具合いに積状態に分離して書くことができるからである。2電子の一重項状態も
-> = (|01> - |10>)/√2
と書き,同じくエンタングルメント状態である。純粋量子状態+>は密度行列ρで完全に規定され,
ρ = |Φ+><Φ+|

= 1/2*(|00><00|+|00><11|+|11><00|+|11><11|)
である。一番目の量子ビットの情報がない場合に,一番目の状態についてトレースをとることにより2番目の量子ビットの密度行列を与えることができる。これを縮約密度行列という。
ρ2= Tr1+><Φ+|
= <0|1ρ|0>1 + <1|1ρ|1>1
= 1/2 * ( |0><0|+|1><1| )
この縮約密度行列は,状態|0>と|1>が確率半々でランダムに混ざり合った状態(完全混合状態)である。同様に,二番目の量子ビットの情報がない場合に,二番目の状態についてトレースをとることにより一番目の量子ビットの密度行列を与えることができ,それはρ2と同様な完全混合状態であるある。個々の量子ビットの情報から得られる積
ρ1 ρ2 = 1/4 * (|00><00|+|01><01|+|10><10|+|11><11|)
はもとの ρ とは全く異なった状態を表している。このように,エンタングル状態は,全体の状態 ρ を局所的な部分系の状態 ρ1,ρ2のみから知ることができず,非局所的(nonlocal)な状態とも呼ばれる。エンタングル状態では,一方の粒子を測定することが他方の粒子の状態に影響を与える。例えば,|Φ+>で一番目の量子ビットを測定して|0>という結果を得たとすれば二番目の量子ビットは自動的に|0>に変化する。|Ψ->では,一番目の量子ビットの測定結果が|0>なら二番目の量子ビットは自動的に|1>に変化する。この変化は2つの量子ビットが近くであっても遠くに離れていても同様におこる。注意すべき点は,この変化だけでは情報の伝達にはなっていないことである。情報の伝達とは,A地点からB地点へ情報,例えば|0>を送ることであるが,Bが|0>を得たとしても,“Aが既に測定を終了した”という情報がなければBの状態|0>は意味がないからである。Aより先に測定をしてしまって,たまたま状態|0>を得ただけかもしれないのである。Aが測定を終了したという通知は古典的な通信方法(電話等)によるしかないので,情報の伝達速度は光速を越えることはできない。

(2)量子テレポーテーション

エンタングルメント状態を活用した量子情報処理の分野としては,量子暗号,量子コンピュータ,量子通信,量子放送等があるが,いずれの分野においても基礎となる理論として量子テレポーテーションがある。詳細は別途記載するが,以下にその概要を示す。
量子テレポーテーションとは,情報の送り手(通常Aliceと呼ぶ)が,遠隔地にいる情報の受け手(通常Bobと呼ぶ)に,ある量子状態(波動関数)を伝送する方法のことである。送られる量子状態は,Aliceのところで行われる“エンタングルメント測定(またはベル測定)”により消滅(崩壊)し,遠隔地のBobにより再生されることから“テレポーテーション”と名付けられた。AliceとBobがあらかじめ共有している量子相関のある光を通信チャネルとして用いることがミソである。そのチャネルは,2量子ビットの最大エンタングルメント状態(ベル状態
|ξ>AB = |Φ+>AB = (|00> + |11>)/√2
である。一番目がAliceの粒子で二番目はBob粒子であることを明確にするためにサフィックスABを明記した。送られる量子状態は一般に
|φ>A = α|0>+β|1>    (α22=1)
と表すことができる。Aliceのいる場所での量子状態であること明記するためにサフィックスAを|φ>に付けた。量子テレポーテーションは,最終的に|φ>Bを得ることである。ここで,量子状態と伝送チャネル状態の直積をとると,簡単な計算により, |φ>A|ξ>AB =
1/4*|Φ+>A(α|0>+β|1>)B +
1/4*|Φ->A(α|0> - β|1>)B +
1/4*|Ψ+>A(α|1>+β|0>)B +
1/4*|Ψ->A(α|1>+β|0>)B --式(1)

と変形できることがわかる。ここに,
+> = (|00> + |11>)/√2
-> = (|00> - |11>)/√2
+> = (|01> + |10>)/√2
-> = (|01> - |10>)/√2
であり,2量子ビット間の最大エンタングルメント状態の基底状態となっており,ベル基底と呼ばれる。式(1)は,場所Aにあるベル基底の各々に対して,場所Bの単量子ビット状態が
+>   ←→   α|0>+β|1>
->   ←→   α|0>-β|1>
+>   ←→   α|1>+β|0>
->   ←→   α|1>-β|0>
のように対応した重ね合わせ状態になっていることを示している。
そこで,以下の手順により量子テレポーテーションが実現される。

[1] 送信者Aliceは,送りたい量子状態|φ>Aと通信チャネル|ξ>ABをベル合同測定する。ベル合同測定とは,2量子ビットでのベル状態|Φ+>,|Φ->,|Ψ+>,|Ψ->を基底に用いた測定方法をいう。測定前は量子状態|φ>Aと通信チャネル|ξ>ABはエンタングルしていない積状態にあるが,測定によりベル基底のどれかの状態を得ることになる。

[2]送信者Aliceは,{|Φ+>,|Φ->,|Ψ+>,|Ψ->}のうち,どの結果を得たかを,古典的な通信手段により受信者Bobに連絡する。

[3]受信者Bobは,古典情報を取得後,状態を測定し,結果に対して{|Φ+>,|Φ->,|Ψ+>,|Ψ->}に対応する復元操作を行う。復元操作は,{|Φ+>,|Φ->,|Ψ+>,|Ψ->}に対応したパウリ演算{I,σz,σx,σzσx}により行われる。演算の結果は全てα|0>+β|1>になるので場所Bにて場所Aの状態が再生できるのである。


(2002年3月10日;第一版 Copyright 寒泉)