■量子易学モデル

古代中国においては、前漢の初期ころに儒教を国教とするにあたってその権威づけのために「易の宇宙観」が儒学者に要請されたようだ。 そこでの宇宙観には2種類あって、一つは天人相関説、もう一つは天人合一説と言われている。

一方西洋でも近代以降似たような宇宙観があって、代表的なものとしてこのホームページでは、 ライプニッツの「易と単子論(ライプニッツ)」とユングの「易と共時性原理(ユング)」を紹介している。

大雑把に言ってしまえば、単子論は天人合一説とよく似ており、共時性原理は天人相関説とよく似ている。

両説ともに、人より偉大な天(宇宙)の存在を考え、天の動きと人間の動きが相互に作用しあうものと考えている。

天人相関説は、天と人が相関している、つまり、天災が起こるのは人徳が足りない(因果律)ので、天子(皇帝)が代わるのは天の仕業である、というような理論で、これは秦を漢が滅ぼすにあたっての自己の正当性の根拠とされたようだ。

一方、天人合一説は、天と人は同じ仕組みで動いている、つまり天は大宇宙(マクロコスモス)で人は小宇宙(ミクロコスモス)であり、マクロとミクロは同じ原理(これを道と呼ぶ)で動いている、という立場だ。これは独立した単子(モナド)が神の媒介を通じて予定調和的に動いているという部分を除けば、ライプニッツの単子論と同じような考え方である。

では、量子易学ではどんな考え方で宇宙観を表現するのか、ここを明確にしておきたい。

当初(2001年時点)は、ユングと同じように、集合的無意識(天)と人が「量子もつれ」によって相関状態にあり、占筮の瞬間に天の状態の反対が人に伝わる、と考えていた。しかしこの場合、量子もつれとなっている実体は何なのか、とかコンピュータ(または易者)と占いをしてもらっている人との間の状態を、天がどのように感知するのかといった問題が生じる。具体的には量子テレポーテーションの仕組みを当てはめることになるが、集合的無意識の実体もよく分からないのが欠点だ。

また、天人相関説にしろ天人合一説にしろ、いわゆる「ニュートン的絶対時間」はない。易では、「時間」ではなくてあるのは「時機(タイミング)」だけである。この辺について現代物理学はどのように考えるのだろうか?結論からいえば、このホームページ2002年10月14日に「量子真空」で述べたように、一般相対論では、「重力が時空を造り」、ループ重力理論では「時間は存在しない」ものとして真空が創造されるという立場だ。

現代人はニュートン的時間に飼いならされているが、実際にあるのは事象(四季、日夜等々)の変化だけであって、「変化のタイミング」こそが重要なのではないか?

いまでは、天人合一説の「天というマクロコスモスと人のミクロコスモスの道(動作原理)は同じで、お互いに相互作用はない」を中心としてモデルを考えているが、単子論では「単子には窓がない」とか「表象は欲求で変化する」とか易の原理に適った文言が多く、ライプニッツの単子論をベースに宇宙観を整理し、さらにこのモデル化を図ることにした。

具体的には、量子易学のマクロコスモス(天の動作原理)としては、

①量子もつれにある状態が表象として存在する。「表象」としては陰と陽という値をとるモナド(単子=爻)である。(単子論 (14) 
②3個のモナドは合成体として8種類の小卦を構成し、自然界の森羅万象の「物(複合体)」を表す。更に2つの小卦(上卦・下卦)の組み合わせにより人間界の全状態を表す。
③創造された卦空間の中では、64個の卦(6個の爻で1卦を表象)というノード(節)とノード間を遷移するための変爻があるだけである。易の時空構造は64個のノードと変爻ネットワークで閉じており、あるタイミングでは必ずどこかのノードにいる、つまり卦の中にいる。 ④そしてその遷移のタイミング(変爻が反対の陰陽に変わるタイミング)は、ライプニッツによれば「欲求」である。(単子論 (15) 

そして、同じ動作原理がミクロコスモスとして人間の脳内に存在する、というのが量子易学の基本重力構造とする。

つまり、「自分がこうなりたい」という欲求が正当なものであれば、その思い(欲求)がその人間の人生を造り出しているのだ。

残る課題はただ一つ、ミクロコスモスとしての脳が量子状態にあるのか、仮に量子状態にあるなら、それはどのように記述されるべきか?

ということだ。脳の量子場理論として、このホームページでも2001年11月25日に「量子場脳理論」として紹介した。しかしその後この方面の研究も進んでいるようで、今(2023年12月)時点では Wikipediaにも量子脳理論として2009年以降記事が更新され続けている。今後の進展を期待したいところです。

最後に、脳が量子状態になりうる、と仮定してそのミクロコスモス(動作原理)はどうなるのか、ということを考えてみたい。 易占いをする時の大前提があります。それは「迷っている時のみ易に頼ってよい」ということです。ということは迷った時には自分の良心に従って行きなさい(生きなさい)ということです。更には、「悪いことは占ってはいけない」とも言われます。

易の文言は「貞正」なら吉とか「吝ならば凶」とか「大川を渡るによろし」とかが多いです。全て占う人自体が正しく行動することが大前提で、悪い人が悪いことの成就を占ってもあたらない、つまり悪い人に正しい人向きの答えを宣託してもまったく中らないということになります。

昔から、「性善説」とか「性悪説」とかあります。人の魂は生まれた時は純真無垢(性善説)でも時を経るに従って「悪い垢」が一杯ついて(損得などの意識が身について)、なかなか良心に従った行動はとれなくなります。しかし無意識の中にはその良心があって(それは全人類共通でしょう)、なにかの拍子にフッと湧き出ることもあります。
難しいのは、常に良心が顔を出してくれるのではない、ということです。迷いに迷って一瞬ぼ~とした様なとき、例えば風呂の中に浸かった時や散歩中に「ふと」なすべきことが浮かんだりするものです。

いつでも良心と相談できたら、そういうツールがあったらなんと便利だとは思いませんか?そのツールが易占いなのです。結局易占いとは「良心との対話ツール」であるとその存在を位置づけることができます。易占いで、筮竹を分けるということは、無心に操作するその瞬間にその無意識の良心と意識が量子もつれを起こして、良心が顔を出してくるという解釈です。

つまり、脳のミクロコスモス(動作原理)としては、「無意識の良心と意識が量子もつれを起こして、良心が顔を出してくる」というモデルを想定します。

脳の中にはこういう「もつれ事象」を計算できる量子コンピュータ的動作原理が存在するのだと思います(量子コンピュータ自体が存在するのではありません。未知ですが同じ原理で動く「何か」があるのです)。

面白いのですが、易はいつも中るわけではありません。易が出す答えが多変爻の場合(卦の中に2以上の変爻がある場合)にはどうも中ってないようです。今は多変爻の場合でもある論理をもちいて無理やり一変爻に変換して答えを出しています。どうもこれは中らないようです。次のホームページでは中る確率でも出そうかな、と思っています。

(2023年12月18日;第1版 Copyright 寒泉)