■ 春秋左氏伝にみる易占事例

易の占いが古代中国において実際どのように行われ、その結果がどう解釈されたのかは非常に興味深いことである。筆者は易の専門家ではないので重要なものを網羅することは到底無理であるが、知る限りにおいては 「春秋左氏伝」(紀元前722年~468年)における事例が参考になるので、以下古い順に掲載する。なお、この内容は岩波文庫「春秋左氏伝(上・中・下)から引用している。

(1)荘公22年(672B.C.)

周王朝の分家としての陳(チン)国での話。陳の厲公(レイコウ)から一人の公子が誕生した(陳の敬仲)。陳公が易で占ったところ、(110000)の(111000)に変ずる(観の第4爻が変爻)と出た。これは「敬仲はきっと陳に代わって国を保つでしょう。しかも陳国ではなく他の土地であり、しかも本人ではなくその子孫が。」と解釈された。実際、敬仲の子孫は約300年後に、大国である斉の実権を掌握した。

(2)閔公(ビンコウ)元年(661B.C.)

周王朝の分家としての晋(シン)国での話。晋の献公に仕え、後に戦功により晋の地域である魏を賜った畢万(ヒツマン)の話。以前、畢万が晋に仕えるにあたって、易で占ったところ、(010001)の(010000)に変ずる(屯の初爻が変爻)と出た。畢万の子孫は晋国で(苦労はあっても)きっと繁栄するだろうと占断されたが、事実、晋国の魏を賜り大いに繁栄した。

(3)閔公(ビンコウ)2年(660B.C.)

周王朝の分家としての魯(ロ)国での話。魯の桓公(在位711-694B.C.)の公子である友(ユウ)が誕生したとき、桓公は易を立て将来を占わせたところ、大有(101111)の(111111)に変ずる(大有の第5爻が変爻)と出た。これは「将来、その尊貴は父君と同様であり、君主同様に敬われる」と判じられた。事実、公子友の子孫は魯君を補佐し、周王朝からは諸侯と同様の待遇(魯の季孫氏)を得て繁栄した。

(4)僖公(キコウ)25年(635B.C.)

周王朝の分家としての晋(シン)国での話。晋の文公(在位636-628B.C.)が諸侯の支持を得るために、周の襄王を援助すべきかどうかを占った時、大有(101111)の(101011)に変ずる(大有の第3爻が変爻)と出た。これは「戦に勝って王が饗応の礼を受けることなので、これ以上の吉はない」と判断された。これに従って文公は襄王を助け、襄王より晋の南陽地方を賜った。

(5)宣公(センコウ)6年(603B.C.)

鄭(テイ)国での話。鄭国の公子曼満(マンマン)が卿になりたいと言ったところ、易で占って(001101)の(101101)に変ずる(豊の第6爻が変爻)と出た。これは「徳もないのに貪欲だ。3年と持つまい」と解釈されたが、事実、3年後に鄭の人に殺害されてしまった。

(6)成公(セイコウ)16年(575B.C.)

晋は鄭(テイ)国に攻め入ろうとしたところ、強国である楚(ソ)が救援に駆けつけた。楚軍と戦うか、やり過ごすかを易で占ったが(000001)と出た(変爻なし)。これは「南の国(楚)が縮まって、その王が負傷する」と解釈され、開戦を決意したが、予言どおり勝利をおさめた。

(7)襄公(ジョウコウ)9年(564B.C.)

周王朝の分家としての魯(ロ)国での話。国主である襄公の祖母である穆姜(ボクキョウ)が東宮にて亡くなった。以前、この場所に幽閉された時に易で占ったら(100100)が八変して(011011)に変ずると出た。しかし、占者はこれを(011001)と読み替えて「(付き随って)すぐに出国するのがよい」と勧めたが、穆姜は、「自分には易に占ってもらう徳が欠ける」と言ってそのまま留まった。

(8)襄公(ジョウコウ)25年(548B.C.)

斉(セイ)国での話。斉の太夫である崔杼(サイチョ)は未亡人で美人の棠姜(トウキョウ)を妻にしようとして自ら易で占ったら(011010)の大過(011110)に変ずる(困の第3爻が変爻)と出た。「進むこともできず、恃むこともできず、居場所がなく凶」と判断され婚姻を反対されたが、崔杼は「それは前の夫の凶兆」と言って相手にしなかった。結局、棠姜は斉の君主である荘公と私通しており、これがもとで荘公は崔杼に殺されたが、3年後には崔杼も居場所がなくなり、首を括って自殺した。

(9)昭公(ショウコウ)5年(537B.C.)

周王朝の分家としての魯(ロ)国での話。魯の三名家(三桓という)の一つである叔孫氏の穆子が生まれた時、その父親が易で占ったら明夷(000101)の(000100)に変ずる(明夷の初爻が変爻)と出た。これは「この児は一時的に魯の地を去るが、父親の後を継ぐために帰国するでしょう。しかしその時に、讒言をする人間を伴って帰国し、晩年は飢えて死ぬでしょう」と判断され、その通りとなった。

(10)昭公(ショウコウ)7年(535B.C.)

周王朝の分家としての衛(エイ)国での話。衛の襄公の正夫人には男子がなく、寵姫の間に二人の男子があり、次男を「元(ゲン)」と言った。易で次男を占ったら(010001)と出た。また、長男を占ったら(010001)の(010000)に変ずる(屯の初爻が変爻)と出た。屯の卦辞に「元(おおい)に亨(とお)る」とあり、初爻には「候を建てるによろし」とある。嫡子は「嗣ぐ」とは言うが「建てる」とは言わない、ということ、及び、「元」という名前から次男の「元」が衛を継ぐことに決定した。

(11)昭公(ショウコウ)12年(530B.C.)

周王朝の分家としての魯(ロ)国での話。魯の三名家(三桓という)の一つである叔孫氏の臣下の一人が離反を企てて易で占ったら(000000)の(010000)に変ずる(坤の第5爻が変爻)と出た。爻辞には「黄裳、元(おおい)に吉」とあり、臣下は大吉と考えたが、易の達人は「易は、忠信のことならあたるが、そうでない場合には判断どおりにはならない」と述べた。

(12)哀公(アイコウ)9年(486B.C.)

周王朝の分家としての晋(シン)国での話。殷王朝(1766-1122B.C.)の後裔である宋(ソウ)国は鄭(テイ)国に攻め入った。晋は鄭を救援すべきかどうか易で占ったら、(000111)の(010111)に変ずる(泰の第5爻が変爻)と出た。爻辞には「(殷の)帝乙、妹(いもうと)を帰(とつ)ぐ。もって幸いあり。元(おおいに)吉」とあり、以下のように判断された。「宋は殷の末裔であり、娘が鄭に嫁いでいる。従って、宋には吉があり、鄭を救うために宋を撃つのはよくない」として鄭の救援を中止した。

(13)中国の南宋時代の話。

大儒者である朱子は、時の執政者が権力を欲しいままにし、私党を組んで貪欲に振舞うのを諌めるべく皇帝に数万語の上奏文を書き、弾劾しようとした。これを知った弟子達は朱子が殺されてしまうと懼れ、止めるよう諫言したが朱子は聞かなかった。最後に、易で占って決めるように願い出て朱子もこれを了承したところ、(111100)の家人(110101)に変ずる(遯の初爻と4爻が変爻)と出た。これを見て朱子は上奏文を焼き捨て、引退して遯翁と称した。(出展:岩波文庫「易経」)

(2021年12月5日;第一版 Copyright 寒泉)